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人間関係と恋愛を科学する雑学サイト Little Riffle

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複雑な人間関係や不可思議な恋愛感情など、人間について独自の視点で科学する雑学サイト

川内原発の再稼働について
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     8月11日(火)に川内原発が再稼働しましたね。
     多くの人々が反対しているにもかかわらず、民意を無視して再稼働を強硬した安倍政権を非難するような報道が多く見られました。また、原発の再稼働に反対するのが"国民の総意"であるかのように論ずる人々もたくさんいます。

     もちろん、私も原子力発電には反対です。極めて危険だし、放射性廃棄物の最終処分の問題について未解決のまま稼働させるのは、あまりにも無計画な行動だと思います。チェルノブイリや福島など過去の例を振り返ってみても、万一事故が起こったときの対処方法が充分に確立されているとも思えません。早急に、すべての原発を廃炉にするべきだと考えています。

     ですが、私個人の考え方としては、原子力発電と同じくらい火力発電にも反対です。地球温暖化が着々と進んでいる今、こちらも早急に全廃するべきだと考えています。

     そもそも、福島原発の事故が起こる前までは、地球温暖化対策としての"火力発電の削減"は着々と進んでいました。
     今回の川内原発が再稼働に対して「原発回帰」という言葉を使って批判する人々が大勢いますが、福島原発の事故によって「火力発電回帰」が起こったことに懸念を示す人が少なすぎる(というか、ほとんど聞かない)のが、私にとっては不思議でなりません。

    「原発無しでもやっていけているのに、なぜ再稼働する必要があるのか?」

     と言う人たちがいますが、こういう人たちが「地球温暖化問題」についてどう考えているのか聞いてみたいです。一刻も早く、火力発電も大幅に削減しなければならない、という意識が欠けているのはないでしょうか?

     仮に、今のまま原子力発電だけでなく火力発電も全廃すれば、輪番停電どころじゃ済まないでしょう。一部の限られた地域にのみ、それなりに電気が供給されるだろうけれども、日本じゅうの大半の地域が"電気が一切届かない場所"となり、日本経済は壊滅的な打撃を受けるでしょう。
    (ダムなどの)大型水力発電がメインになるわけですが、これだけでは現代文明を維持することは出来ません。

     今のまま地球温暖化が進めば、今世紀末(2100年)には地球の平均気温が4℃上昇するだろうと言われています。4℃上昇することによって、人間生活にどのような影響が出るのかは研究途中らしいですが、海面上昇によって陸地が減少したり、超大型台風や集中豪雨が増えたり、生態系が大きく変化して世界規模で食糧生産量が激減する、といった予測も出ています。原発事故による放射能汚染も絶対に起こしてはいけませんが、これらも相当ヤバイことだと思うんですけどね...。

     今世紀末ということで、しょせん自分の孫・ひ孫の代で起こることだから(別にどうでもいいや)とでも思っているんですかね?


    ■未来を考えれば「三者択一」の時

    1.放射能汚染のリスクを負う(火力を無くして原発を使う)
    2.地球温暖化による数世代後の人類衰退を覚悟する(原発を無くして火力を使う)
    3.人類が近代文明を放棄する(原発も火力も無くす)


     上記のうち、今はどれか一つを選ばなければならない「三者択一」を迫られている時だと、私は思うのです。

     ちなみに、3番に関してはワザと極端な言い方をしていますが、"方向性として"近代文明の放棄に近い形ということです。要は、電気や化石燃料を大量に使用する近代文明を放棄して、電気や化石燃料をほとんど使用しない新しい文明へとシフトしなければいけない、ということです。

     今、全力で原発再稼働に反対している人たちは、恐らく下記(4番)のような未来像を思い描いているのでしょう。

    4.原発ゼロはもちろんこと、自然エネルギーの台頭で火力発電もいずれゼロになり、地球温暖化も解消し、充分なエネルギーを確保した上で現代文明はますます発展する...


     ですが、現状ではそんな世の中が実現する見通しは立っていません。

    A.自然エネルギーの技術的な問題
    B.自然エネルギー普及のための社会システム上の問題
    C.自然エネルギー普及のための政治システム上の問題


    A(技術的な問題)について
     太陽光発電は夜間は発電できません。風力発電は風が吹かなければ発電できません。よって"安定供給"は出来ません。また、どちらも発電量は極めて微少で、原子力発電や火力発電の代替とするためには、膨大な数量の施設が必要になります。(その施設を作るためのエネルギーはどこからまかなうのでしょうか?)
     安定供給のための蓄電設備は、現状では考えられないようです。強いて言えばリチウムを利用した充電池が最も優れた蓄電方法らしいのですが、地球上のリチウムの量の問題だけでなく、リチウム充電池を作る過程で膨大な電力が必要になるので、そのためのエネルギーをどうするか?...という問題もあるのです。
     地熱発電・波力発電・マイクロ水力発電についても、発電量は極めて微少です。また、施設を設置できる場所が限られているため、原子力発電や火力発電の代替としては役不足です。ただし、安定供給はできます。


    B(社会システム上の問題)について
     資本主義社会の世の中では、お金持ちは太陽光発電や風力発電を設置できますが、そうでない人には何も出来ません。一部の大富豪を除けば、自分たちのための設備を用意するのが精一杯で、私財を投げ打ってでも世の中のために貢献しようとする人はほとんどいないでしょう。
     これでは、たとえ自然エネルギーの技術的な問題が何とかなったとしても、地球上に広く普及させることは難しいでしょう。


    C(政治システム上の問題)について
     民主主義の多数決による決定方式では、必ずしも"正しいこと"が優先されるとは限りません。また、民主主義には、遠い未来のことよりも目先のことを優先する傾向もあります。
     私個人の考えでは、原子力発電や火力発電の代わりに自然エネルギーを爆発的に普及させるためには、国が主導でせっせと発電設備を作りまくるしかないと考えています。自然エネルギー発電に従事する人を大量に雇って完全に公務員化するのです。そのためには、大増税が必要になるでしょう。消費税なんか簡単に40%〜50%ぐらいまで跳ね上がるんじゃないでしょうか?(ここで言っている"%"はテキトウです...)また、自然エネルギー発電設備を設置する土地の買収にも大金が必要になるでしょう。
     今の民主主義の世の中で、こんなことが実現するとは思えません。

     かつて"古代ローマ帝国"では、カエサル〜オクタビアヌスの時代に「共和制」から「帝政」へと移行しました。現代の私たちの一般常識では「帝政よりも共和制の方が良いに決まっている。なぜ逆行したのか?」と不思議に思うかもしれません。
     しかし、これにはちゃんとした理由がありました。古代ローマ共和国の領土が広大になり過ぎたため、共和制の元でチマチマと時間をかけて議論していては、遠方の国境地域での対応が遅れてしまう、と考えたからでした。その結果、決定権を皇帝一人に持たせて、遠方の国境地域で何か起これば、即座に対応を決定して迅速に動けるような体制にするしかなかったのです。

     2000年以上も昔の例を引き合いに出すのはナンセンスなのは分かっていますが、一つの発想として、(本当に民主主義が理想の政治体制なのか?)(民主主義のままで地球環境問題を解決させることが出来るのか?)について、考えてみた方が良いと思うのです。


    ■「原発安全神話」と同レベルの妄想

     近代文明を保持したまま自然エネルギーに移行させることは"ほぼ"不可能であるにもかかわらず、自然エネルギーの台頭に多大な期待を寄せることは、かつての「原発安全神話」を妄信する姿勢と何ら変わらないのではないでしょうか?

     あくまでも私個人の考えですが、やはり今、全ての人々が選択すべきなのは、

    3.人類が近代文明を放棄する(原発も火力も無くす)

    だと考えています。

     誤解のないように付け加えれば、ここで言う「近代文明」とは、「電力大量消費文明」と「化石燃料大量消費文明」を指しています。なので、これらに当てはまらない文明は放棄する必要はありません。
     電気だって、自然エネルギーでまかなえる範囲であれば使ってもOKだし、化石燃料でなければ、薪や油やロウソクなどで火を起こすことは可能です。

     もちろん、もしもそうなれば、現代よりもはるかに質素な生活を余儀なくされるでしょう。きっと、想像を絶するほどの質素な生活になってしまうでしょう。普通に考えれば、今よりもずっと"幸福感が少ない人生"を強いられると思ってしまうのではないでしょうか?

     私たち(ぱた出版)は、世の中がこのような社会になろうとなるまいと、人々が充分に幸福感を得られるような社会を築きたいと考えています。そして、たとえ物質的には今よりも質素になり、いろいろと不便になったとしても、人と人との繋がりと、その暖かい温もりの中で、充分に幸福感が得られるような社会を築きたいと考えているのです。


    「物に満ち溢れて何一つ不自由はないけれど、誰一人として打ち解ける人がいない"孤独な"人生」を送るのと、
    「物があまり無くて色々と不便なことが多いけれど、心が通じ合える家族や仲間に囲まれて"心が満たされている"人生」を送るのとでは、きっと前者よりも後者を選ぶ人の方が多いのではないでしょうか...

    ...イメージとしてはこんな感じです。
     本当に心が満たされていれば、電気や化石燃料が無くたって全然OKだと思えませんか?
    | 社会問題 | 13:53 | comments(0) | - | - |
    大人って何だろう? 【後編】
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       7月5日(日)の朝日新聞の折り込みに入っていた『GLOBE:大人って何だろう?』をザッっと読んだ感想のつづきです。
      (http://globe.asahi.com/feature/2015070200008.html)
      〔※朝日新聞デジタル購読者以外は一部しか読めません。〕

       歴史好きの私にとって、とりわけ興味深く読めたのは、歴史上の人物を例にあげて説明した文章でした。
       三国志の曹操は「(為政者としての)結果責任を果たす」こと、フランス王アンリ4世は「柔軟さと寛容さ」、ロシア皇帝エカチェリーナ2世は「現実主義(リアリズム)」などなど...これらが「大人のリーダーの条件」であるということです。

       まあ、その通りだろうと思います。
       ただ、これらは全て、まずは"自立"があった上で"より良い大人"になるための条件のようにも思えました。
       とりわけ「柔軟さと寛容さ」については、近年多発する「土下座強要事件」や「クレーマーの悪質化」や「モンスターペアレンツ」など、とりあえず大人であるけれども、自己中心的で、レベルが低いとしか思えないような大人が増えているような気がしてなりません。


       次に、「大人にならなくてもよい時代」は来るのか? について。
       最初に表題に興味を持ちました。大人にならなくてもよい時代...何やら面白そうな話を予感させます。ですが、中味を読んでみると、少々思っていた内容とは違いました。だからというわけではありませんが、ちょっと批判が多くなります。

       筆者は、ポストモダン型の人間はまだ存在していないとおっしゃっていますが、私もそう思います。実際に、前時代の画一化された価値観の弊害として特徴的だった"対人恐怖"は、今も無くなっていません。これは、何らかの形で画一化された価値観が今だに社会全体に横たわっているからだと思います。

       一つ気になったのが、発達障害についての件です。
       発達障害の原因の一つに「(主体が存在しない)発達障害的な心のありかた」をあげていますが、それは違うと思います。発達障害は、あくまでも脳の機能障害です。
       私には、かつて発達障害を持つ人と個人的に深く関わった経験がありますが、決して「心のありよう」などではないと感じました。心のありようによって、症状(行動パターン・思考パターン)をある程度改善させることは不可能ではありませんが、間違っても"原因"などではありません。(私はそう感じました。)

       また、「"主体"がないと、自分と他人の区別がなくなり、他人の心が理解しにくい...」といったお話も出てきましたが、これは、心理学者や精神科医、または、私のように、発達障害を持つ人と深く関わった経験のある一部の人にしか、意味がよく理解できないと思います。
       とりわけ、"自分と他人の区別がない"という点が、いったいどういうことなのか、世の中の多くの人にはサッパリ意味が分からないか、もしくは、大きな語弊を招きかねないと思います。

       発達障害を持つ人が「自分と他人の区別がない」というのは、例えば、隣の人が苦しんでいて、自分は別になんともなかったときに、
      (自分は苦しくないのに、隣の人は苦しそうにしているけど、なんでだろう?...自分が苦しくないのだから、ここに"苦しみ"なんか存在しないはず...苦しそうな"フリ"をするのには何か意図があるのでは...?)
      と、思ってしまうようなことです。

       ただし、これは直接的な他人との関わりの中でのみ起こる思考であって、たとえば、遠くに住む異国の難民などが苦しんでいる情報などをテレビなどで知れば、彼らに対して(あの人たちは苦しんでいる。可愛そうだ。)と理解できたりもします。
      (※あくまでも、これは、発達障害を持つ人と深く関わった経験のある私が、相手とのやり取りの中で感じたことです。事実とは異なるかもしれませんし、人によっても違うかもしれません。)

       つまり、私がここで言いたいのは、"大人になる・大人にならない"の話題に、発達障害の話を持ち出してくるのは、まったくの見当違いだということです。

       発達障害の話を語るときには、もっと、極力語弊のない説明を加えてほしいと思います。誤解や偏見や差別を生むような表現は、極力避けてほしいのです。それが、発達障害で苦しんいる本人のためでもあり、発達障害の人と個人的に関わっている人のためでもあるのです。

       他人の心が理解できない人が増えてきているのは、"柔軟さと寛容さ"に欠ける人が増えているからであって、"他人の心が理解できない"のではなく、"他人の心を理解しようとしない・理解するつもりがない"ということなのです。
       能力的に理解できないのではなく、激化する競争社会の中で、他人に思いやりを示す余裕をなくし、他人の心を理解するよりも、他人を打ち負かすことを優先せざる負えない状況に追い込まれてしまっているからなのです。


       また、現代の状況は、必ずしもポストモダンの時代になっているわけではないと私は考えています...
      (...ちなみに、「ポストモダン」って何?...どういう意味?)
       聞いたことはあったし、なんとなく漠然と理解していたけれども、どちらかといえば芸術用語的なイメージが強いこの言葉...。

       新聞だけでなく、公(おおやけ)に発表する文章を書くときは、カタカナ言葉(とりわけ近年の新しい外来語)を使うのは最小限にしてほしいと私は思っています。

       たとえば、パン(発泡性小麦蒸餅?)やスパゲッティー(伊太利亜風蕎麦)など、日本語にするとかえって分かりにくい言葉のみに限定してほしいのです。
       中には、国際化社会の中で、日本語ではピッタリと当てはまる言葉が見つからない場合などに、難しいカタカナ言葉を使わざる負えない場合もあるかもしれませんが、それでも出来るだけ日本語で絞り出すなり、日本語の組み合わせで新しい造語を作るなりしてほしいです。でなければ、意味や注釈を別欄にでも書き添えてほしいと思います。

      たとえば、
      「価値観多様化社会」(※ポストモダンの言葉の意味の一部。だけど、ここで重要なのは"この意味合い"がメインなので、これだけでもO.K。)
      とか、

      たとえば、
      (注:ポストモダン…理性と学問によって人間性と社会は良い方向へと進歩していく、という近代の統一された価値観が崩壊し、たくさんの情報が飛び交う世の中で、価値観が多様化していく時代の意味。)
      のように。


       話を戻します。
       私は、現代の社会はまったくポストモダンの時代になっていないと考えています。
      「理性と学問を重んずる価値観が崩壊した」という点ではそういう傾向もあるかもしれませんが、その結果として価値観が多様化したのではなく、価値観が入れ替わっただけだと考えています。ただ単に「理性と学問、人間性と社会」から「経済(お金)と力(権力)、個人の成功と結果重視」へと価値観が移り変わっただけのように思えてなりません。
       その背景には、やはり経済第一主義・競争社会(競争原理)が存在しているのでしょう。

       私は、まったく別の視点で「大人にならなくてもよい時代」が来て欲しいと考えています。
       協調性、我慢、現実主義、責任...大人として認められるためのスキルはたくさんありますが、私はこう思うのです。

      ・周囲に合わせるだけの協調性ならいらない!
      ・自分を殺してまで我慢しなくていい!
      ・お金と権力のためだけの現実主義はやめなければならない!
      ・顧客の欲求不満のはけ口としての責任なら取らなくていい!

       こうすることが「大人になる」というのであれば、大人になんかならない方がマシです。そうではなくて...

      ・自分を含めたみんなのための協調性。
      ・自分が正しいと心から思える我慢。
      ・お金や権力ではなく、一人でも多くの人を幸せにするための現実主義。
      ・失敗を糧にして、改善させようと努力する責任。

       大人とか子どもではなく、これが当たり前になるような社会になればいいなと思っています。

      | 社会問題 | 13:54 | comments(0) | - | - |
      大人って何だろう? 【前編】
      0
         来年の夏の参院選から選挙権年齢が18歳以上に引き下げられます。

         私が思うに、本来は逆だと思うんですけどね。
         ひと時代昔であれば、20歳を過ぎても精神的に子どものままな人は少数派でしたが、現代は急速に増え続けてしまっているのですから。

         もしかしたら、少しでも若くて柔軟性がある(年齢的に未来への希望を抱きやすい)うちに"大人の自覚"を持たせることで、精神的に子どもな大人を減らそう、という意図があるのかもしれないけれども...
        (まあ、おそらくは、少子高齢化の中で、税金やら社会保障費やらを増やすための第一歩ってことなのかもしれないけど。)


         7月5日(日)の朝日新聞の折り込みに入っていた『GLOBE:大人って何だろう?』をザッっと読みました。
        (http://globe.asahi.com/feature/2015070200008.html)
        〔※朝日新聞デジタル購読者以外は一部しか読めません。〕

         以下、私が印象に残った部分にのみ触れていこうと思います。

         まず、イニシエーション(成人になるための通過儀礼・儀式)について。
         バンジージャンプとか割礼など、発展途上国の少数民族で行われるものが最初に思い浮かびますが、日本の成人式などもこれらの一つです。ただし、イニシエーションを済ませれば、すぐに(精神的に)大人になれるわけではありません。まずは「大人としての自覚を持つため」という位置づけであって、そこから少しずつ大人への成長が始まるってことらしい。

         ここで、日本の成人式について考えてみたときに、果たしてイニシエーションとしての役割が果たせているだろうか? ということが気になります。
         結局あれって、ただの「同窓会」みたいなものですよね?(人にもよるのでしょうが...)

         私もそうでした。
         正直、面倒くさくて行くかどうか迷っていたのを覚えています。だけど、久しぶりの友人に会えるかもしれないと思って、とりあえず行ってみることにしました。公会堂で何やらエライ人がしゃべっていたけれど、内容はもちろん、公会堂で話を聞いていた"シーンの記憶"すら、おぼろげにしか覚えていません。


         次に「自立することが大人」という考え方について。
         要するに、親元を離れて全て"自分の力"で生計を立てることです。これについては私も全くの同意見です。
        (近年では経済的な問題や親の介護などの問題で、難しいケースも多いでしょうけれど...)

         お金を自分で稼ぐこともそうですが、炊事・洗濯・掃除など、家事全般を自分で行ない、自分で行なった結果が自分に返ってくる...つまり、料理が下手くそならば、マズイものしか食べられないし、洗濯をサボれば着るものが無くなり、掃除がテキトウなら汚い部屋に住むことになる、ということです。また、稼ぎが少なければ、貧しい生活しかできません。
         これらのことを、自分の努力によって少しずつ改善していくことで、大人としての成長が促されるのではないかと考えます。


         三つ目に、社会的な現象として気になったのが、価値観の多様化によって、困難を最小限に抑えながら(ぶつかるべき困難を選択しながら)社会に出ることができるようになってきたことです。
         ひと時代昔であれば、価値観の選択肢が少なかったために、自分では回避しようのない困難に立ち向かわざる負えないケースも多々ありました。それはそれで問題や苦労も多かったのですが、こういった苦労を経験することこそが、イニシエーション(通過儀礼)のない日本人(欧米型近代国家の人々)が大人へと成長する第一歩だったような気がします。

        「若いうちは、苦労は買ってでもせよ。」

        という言葉がありますが、これは本当だと思います。
        (まあ、お金で買えるようなものでもないですけど...)

        私が、大人になり切れない世の中の若者たちに言いたいのは、

        「とにかく危険の中に飛び込め!」

        ということです。

         なにも「バイクで暴走せよ!」とか「チンピラに戦いを挑め!」といった身体的な危険を冒せというわけではありません。
         たとえば「好きな異性に告白する」とか「ナンパをする」とか「すれ違う人全員に挨拶をする」とか、そういった精神的なプレッシャー(危険?)を自分にかけていこう、という意味です。
        (注:その際には、相手への思いやりだけは忘れないようにしてください。)

        (いったい、そんなことをして何になるのか?)
        といった声が聞こえてきそうですが、これって、実はいろいろと役に立つんです。
        私自身もそうやってコミュニケーション能力を高めてきたし、他人に対して(どうすれば喜んでもらえるのか?)や(何をすると嫌がられるのか?)を、自らの体験を通して学ぶことができました。


         最後に。
         親元を離れ、結婚して、子ども作り、親になり、家庭を営む...これが大人の最低ラインだという意見があります。ヒトがこの世に生まれて、生物の能力として"出来ること"を、ひと通り全て経験するということです。

         やはり、これはどうしてもやっておきたいことだと思います。せっかく生まれてきたのだから、人間である前に"生物"なのだから、後の世に子孫を残して命を繋いで、ホモサピエンスの繁栄のためにも、ぜひ貢献しておきたいものです。

        | 社会問題 | 15:41 | comments(0) | - | - |